ごあいさつ(会長に代わりオレが編)

宿命?または呪いでしょうか?

42歳の厄年を前に

ヤリたい人にもヤリたくない人にも平等に

藤木小学校卒業生には「梵天」と言う神事がやってきます

たとえ都会に染まってしまっても

たとえ遠くに逃げ隠れても

「梵天」は僕らの前に立ちはだかり

何年か振りに人によっては何十年か振りに

半ば強制的に召集された僕らは2月1日の梵天奉納のその日まで

月に何度か集まっては安い友情ごっこを繰り返すのです


一体「これ」になんの意味があるのでしょうか?

「これ」こそが田舎特有古いやつ「地域の呪い」そのものではないのでしょうか?

「めんどくさい!」、「忙しいし!」、「金掛かるし!」、「勘弁してよマジで!」って

コレがやっぱり本当の本当の本当のところの僕の本音です

なのにどうして「梵天」なんてクソめんどくさいのに巻き込まれてしまったのでしょうか?

頼まれたから?仕方ないから?諦めてるから?仲間外れが怖いから?

それともやっぱりバカのままだったから?・・・

まあ理由はさておきね、とうとう昭和55年会の梵天がスタートしてしまい

僕はもう後戻りできないところまで来てしまったらしいのです


「僕たちは健康純情不良少年だった」

今も昔も「不良」って「仲間のため」に頑張るのが常で「理由」も「理屈」もない訳です

逆に「優良」ってのは「成績のため」とか「将来のために」とか「家族のため」とか

「自分のため」または「大人に褒められるため」に頑張る訳です

「理由」や「理屈」で自分を納得させるんです

「大人になる」ってのはきっとそんな「納得」の積み重ねで

こんな僕でもなんとなく大人になってしまったのかも知れません

でもね、忘れないで欲しいのは

僕たちは確かに「健康純情不良少年だった」って事で

今が「不健康」でも「不純」でも「少女」だって良いんだぜ

そりゃあね、そうそう楽しい事ばかりじゃないだろうし

何ヶ月もやってりゃそりゃあシラけるんだろうけど

良い奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもないので

もし良かったら「みんな」もどうか梵天に関わってみてください

変わってしまった人も変わらない人もいるかもだけど

でもそれはお互い様、大人はいろいろあるからね

難しい気持ちはギュッと抱きしめて

それでも「みんな」に会いに来てみてください


最近ね、歳をとるのが怖いんです

老けていくのが老いていくの本当に怖いんです

だからこそ人生最後の「不良」に戻りませんか?

みんなで「リンダリンダ」したらどんなに良い気分なんだろうね?

理由も理屈も意味なんか無くても良いじゃないか?

僕たちは健康純情不良少年だったんだから

「みんな」もそうでしょ?


藤木小学校55年会42歳厄払い梵天頭 

進藤直樹


僕たちは健康純情不良少年だった

この物語は藤木小学校昭和55年会が42歳厄払い梵天を奉納するまでの軌跡を描いた物語である。